生きるとは日々を染めること

日記および過去の書き残し ぜんぶわたし

われにかえる

18時過ぎ、職場を出ていつも通りの人混みを歩いていて突然思い出した。学生時代、バイト終わりの駅前で、大好きな人の顔をみつけて心がほころぶ瞬間のこと。0円スマイルを振りまく「店員さん」でいるために体中に張り巡らせていた緊張が消え去って一気に自分に引き戻される、あの感覚。

 

社会人としての私は、能のなさや緊張を必死で隠して「そつがない2年目社員」のふりをしている。ボロが出ないように色々なことに気をつけながらあたかもそれが本来の自分かのように平然と振る舞うのは、ただ笑顔でマニュアル通りの役割を演じるよりもよっぽど難しくて、心はアルバイト時代の何倍も張りつめている気がする。それでも、席でパソコンに向かっているときも、上司と話しているときも、その場にいるのはあくまでも素の、名前を持った一人の人間としての私だ。仕事中の自分とそうでないときの自分の境界は、「店員さん」という名のないキャラクターを演じていたときほど明確ではなくなった。

退勤の打刻をして職場を出て、駅へ向かい、耳に音楽を流し込んで、電車に揺られて、力みっぱなしだった肩をゆるめて、晩ごはんのこと考えたりして、少しずつ少しずつ、自分にかえる。

駅前で私を待つ人も、いまはいない。

顔を見たその瞬間に何もかも吹き飛んで、やわやわで無防備な自分に戻される、あれは魔法みたいだった。あれは恋だった。

優しいスピッツ(2023/6/3 9:24のメモ)

小さいときから親が運転する車の中でいつもスピッツが流れててそれを聴いて育ったんやけど、2人ともがスピッツのファンだったというより、全然音楽の趣味が合わない両親が車で流す音楽としてお互いに「アリ」判定を出したのがスピッツだったとのこと。ちちははありがとう。

 

私のためのセトリかとほんまに思った。膨大な曲数の中からセトリ組む時に、雰囲気とか立ち位置が似てる曲の中からどれをやるかっていう選択がきっと行われてると思うけど、その選ばれた1曲1曲がことごとく私の琴線にクリティカルヒットで、でもたぶんスピッツファンみんなそう思ってる。そんなんやると思わんやん〜な曲いっぱいあって、まっすぐにまっすぐにスピッツファンのための選曲って感じした。イントロかかるたびにニコニコが止まらんくて、私のこころ生きてる!ってうれしかった。トゲばったハードロックなスピッツも大好きやけど金曜日の退勤後の私の心が求めていたのはこれでした。優しいスピッツ。本当にありがとうございます。ずっとピュアにワクワクを届けてくれてありがとうございます。

推しが、私の好きじゃない言葉を投稿していて苦しくなった。

「みんな〇〇で凄いよ。私は……」

推しがどんなことを思い浮かべて書いたのかはわからないけれど、SNS上に書き綴られた文章の中の「みんな」は特定多数でも不特定多数でもなくもはや架空の概念としか思えなかった。

 

そもそもこういう言い草は好きじゃない。人それぞれにその人がその人たる背景があるのに、「みんな」とまとめあげて「凄い」とか「偉い」とか勝手に乱暴に評価する言葉。

 

私は推しがどんなに素敵に言葉を操るか知ってる。自分のネガティブを唯一無二の言葉に昇華させて、シリアスにもトンチキにもできることを知ってる。

だからこそ、みんなナントカで凄いみたいなこんなくだらなくて無意味なフレーズに推しが縛られているのだとしたら、苦しい。

なんのはなし?笑

2024年1月12日のできごと。

 

去年の秋くらいから、お昼は休憩スペースで同じ部署の同期数名とご飯を食べることが多くなった。誘い合うわけではなく、各自の気分やタイミングによりけりでなんとなく集まるから、日によって2人だったり3人だったり4人だったりする。

同期というか実際はみんな1年先輩なのだけど、私は大学を1年休学しているので歳が同じで、少しずつ話すようになり、今となってはまるで同期かのように接してくれている。冒頭では便宜的に同期と書いてみたけど、虚偽をよしとできない性質の人間なので結局説明している。

で、この日私は自分の席で会社の給食を食べたあと、休憩室へ食器を返却しに行ったら、3人がいたので合流した。ちょこっと話して、みんなで仕事場まで戻る途中、市販のでっかい鏡餅の話になって、あれって中に小さい個包装のお餅が入ってるんよね〜みたいな話をした。

そしたらAちゃんが「中に入ってるお餅って、ちゃんと水に入れて食べれるやつやんね?」みたいなことを言ったので、私はすごく気になった。

私「えっ、いつもお餅ゆでて食べてるん?」

A「お餅ってゆでて食べるもんじゃないん?」

私「デフォルトっていうか一番よくある食べ方は焼くじゃない?お餅の絵も、四角の上に丸く膨らんでて」

A「たしかに。でもお餅焼いて食べたことないかも」

私「そんな人いるんや!?」

A「いつもきなこかけて食べること多いから」

私「あ〜、粉っぽいのかけて食べるならたしかにゆでるのがおいしいかも」

A「あとうちの家族みんな固いもの好きじゃないんよね」

私「あ〜、焼いたお餅の外側のとこ歯にめっちゃくっついたりするしね」

A「そうそう」

 

お餅の食べ方のデフォルトが「焼く」じゃない人がいることを知らなかった。私はこういう、身近な人が自分と全然違う文化を持っていることを目の当たりにするとき、とても面白いと思うし、どんなくだらないことでもその人の新たな一面を知れるということが嬉しい。

だけど話がひと段落しかけたところでAちゃんはこう言った。

「…なんのはなし?笑」

この言葉、会話の落とし所を作るための切り札としてめちゃくちゃよく使われる。私も使ってるかもしれない。

でもさ、私は思う。これを言うのって、その話をさほど面白いと思ってないからじゃないの?このままだとオチがない、って思って言っちゃうんじゃないの?少なくとも私がこの言葉を使う時は、そんなほのかな焦りがある時な気がする。関西人の性なのか?オチがない話はしたらあかんのか??そんなわけなくなくなくない?????

 

Aちゃんの「…なんのはなし?笑」を受けて勝手に若干落ち込んでいる私がいた。Aちゃん的にはそんなに広げるほどの話じゃなかったかなあ。ていうか、Aちゃんにとってはただただ当たり前の話をしてるわけだからそりゃ「なんのはなし?」ってなるか。私が話を面白くできなかったせいかも…。

…いや、Aちゃんはまったくそんなつもりで言ったわけではないとわかってるのだけど。私がこんなこと考えてるって伝えたら、「そんなこと気にしてたん!?笑」って、絶対言ってくれるのだけど。

Aちゃん、あのときの餅談義、私はめっちゃ面白かったよ。

ところで、私の故郷奈良の唐招提寺では、新年の修正会という法要で若手の僧侶が、鏡餅をお供えした人の名前を読み上げたあとにお餅に関する講釈や全国の名物餅の名前を披露するらしいよ。そのことを「餅談義」って言うらしいよ。

…なんのはなし?笑

「生きるとは日々を染めること」

 

冬のボーナスでiPhone 15を買った。それまで使っていたXから、1.5倍の大幅レベルアップ。

Appleのなにやら便利なシステムを使って簡単にデータ移行できたはいいけれど、待ち受けもホーム画面も入ってるデータも、当然前の機種の状態そっくりそのまま、あまりに馴染みがあるもので、高くて新しいものを買ってやったという高揚感が全然ない。

ひとまず無秩序なホーム画面を整理でもするかという気になり、アプリをフォルダ分けしてみたり、使ってないのを消したりしていたら、はてなブログアプリの存在に気づいた。

あーーー、なんかコロナ禍に何かしら発信する場所がほしくていろんなSNSやらブログやらのアカウントを作った気がする。で、結局大半は動かさないまま終わった気がする。

ログインしてみたら、予想通り記事一覧は空っぽ。ブログタイトルに一文だけ。

「生きるとは日々を染めること」

おい、2020年の自分。

ちょっとだけいいこと言うやん。

 

時が流れて社会人になった私は、いまいち代わり映えのしない日々を過ごしてるよ。でも本当は、忙しいとか疲れたとかを言い訳にしてただただ毎日を消費するような生き方をしている自分のせいってことも気づいてる。

今年はたぶん今まで以上に忙しくなるけど、日々を彩るあれこれを見過ごさないできちんと書きとめておきたい。

毎日何かしらある、些細な出来事やふとした思考。何気ない会話。心の動き。

私にとって大切なはずのもの。

私の日々を、染めるもの。

掬いとろうとしなければ、何の色も残さず消えてしまうもの。

白くて柔らかい紙にぽたぽた色水が落ちてじゅわりじゅわりと滲むように、染まっていく日々を実感して過ごしたい。

2024年がおわる頃、振り返ったときどんなグラデーションになっているか楽しみ。